2012年5月29日火曜日

なぜ、日本に良いリーダがいないのか....


4月に日本人の親の帰国に伴い、米国の公立高を中退し、日本の中高一貫校に編入した高校生。 特進クラスでもないのでクラスで一目おかれ、英会話にさほど不自由しないはずなのに、北米への修学旅行のグループのリーダに立候補しなかったらしい。理由をきいたら、人間関係に敏感な彼曰く。
  1. 米国では、部員はリーダのいうことを聞くが、日本では、部員はリーダのいうことは聞かない
  2. 日本では、リーダは責任だけを負うことになる
  3. 日本では、米国と違い、リーダに対する尊敬もない
ということである。高校生でも、こういう認識なのか。世の中を冷めた目でみているというのは、今の時代らしいのかもしれない。

背景)
ナゼこういうことになるのか。

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110927 が鋭い。リーダをやったことが無い人ばかりだと、リーダの苦労がわからないので、勝手なことを言う、組織が回らない。なので、米国は全員にリーダシップを求め、その結果、全員が組織に対する属し方を知っている。

一部引用すると、
欧米(特にアメリカ)の教育機関に入学申請をしたり、外資系企業の面接を受けると常に聞かれるのが、「あなたのリーダーシップ体験について話してください。」という質問です。

大学の入試エッセイで書かされ、面接でも過去にどんな場面でどうリーダーシップを発揮したかと事細かに聞かれます。もちろん入社してからも、リーダーシップは主要な評価項目のひとつです。

一方、日本ではリーダーシップについて問われる機会はごく限定的です。中には「今まで、一度も問われたことがない」という人さえいるでしょう。
(中略)
正しいかもしれないけど、物事を前に進めない発言を繰り返し、本旨に関係のないくだらないことにいつまでもこだわる。 
ちょっとでもややこしくなると、あからさまに無関心な態度を示し、ドタキャンをしたり勝手に役割を離脱したり・・・、するのは、「自分がリーダーとして苦労したことのない人」ばかりです。 
また反対に、杓子定規な態度を崩さず、
「完璧でなければ一歩も進みたくない」
「一切の妥協は許したくない」
「明文化されなければ、一切やるべきでないと思う」などと言い出す人もいます。
「組織を動かして成果を出すことがどれほど大変か」、実体験で学んでいない人がチームにいると、恐ろしく非効率なことになるのです。
リーダで苦労したことがある人は、ふんふんと納得してしまう。そういう経験が無い人は、なにが悪いのか分からないと思う。

日本のエネルギー問題・反原発運動・原発再稼働からみの混沌も、まさにここに原因があると思う。

日本の政治家を考えると)
日本の政治家がイマイチなのは、志が高く、本当に人の気持ちがわかる人間が避けてしまい、金や名誉という空虚なものに価値を求める人たちが、集まってくるせいかもしれない。

日本国内なら、優秀な官僚が作った資料を政治家が棒読みでも通用するかもしれないが、国際社会ではその程度のリーダでは見向きもされない。

今、日本の教育で、一番、必要なのは、全員のリーダシップ体験のような気がしてきた。

そうすれば、組織も回しやすくなるし、リーダが貧乏くじでなくなれば、優秀な人間がリーダに名乗り出ることも増える。

全員に体験させるということだと、中高までで終わらせる必要があるが。

ナゼ気づかなかったのか)
全員にリーダシップは必要ないという表面的な解釈。ないしは、徳治政治的な思想を含む、リーダたちの思い上がりが、この問題の発見を遅らせたのかもしれない。

繰り返すが、私は、徳治政治的な思想は嫌いである。影の黒幕( http://bit.ly/JxoYR8 )や、元老院( http://bit.ly/JxoRoL )なんて、時代錯誤も甚だしい。


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