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本ブログのアクセス統計: 60万アクセスを達成しました。ご訪問ありがとうございました。

60万アクセスまでの経過

2009年12月に始めた本blog。2011年7月ごろに10万アクセスを達成し、2011年12月13日には15万アクセスを達成。
その後、私も更新しておらず、アクセスは少し減りましたが、3月1日には18万アクセス。2012/4/18に20万アクセス、2012/8/21に25万アクセス、2013/1/18に30万アクセス、2013/12/17に40万アクセスを達成しました。しばらく見ていなかったら、2015/5/1に50万2584アクセスになっていました。またまた、しばらく更新しないうちに、2017/6/11に60万7197アクセスになっていました。2018/7/7 .. おお七夕 .. には63万0656アクセスになっていました。久しぶりに更新しました。

2018年5月11日金曜日

伝説の棟梁(とうりょう)中井正清 - 戦国末期でも今に通用するリーダがいた!

NHK 歴史秘話ヒストリア 2018/5/9(水) 22:25〜23:10
お城の国ニッポンを作った男 伝説の棟梁(とうりょう)中井正清
をみた。
興味深かった。再放送は、2018/5/12(土) 10:05-10:50

番組ホームページは: http://bit.ly/2KPNkIL

番組から
家康の江戸城 (慶長期江戸城)の絵図が発見されたとのこと。

wikipedia: 中井正清 http://bit.ly/2jLozRv にあるように、大工の総棟梁として家康の命をうけ、江戸城、知恩院、駿府城の天守、江戸の町割り、増上寺、名古屋城、二条城、内裏、日光東照宮、久能山東照宮、方広寺など、徳川家関係の重要な建築を担当した。

なかでも、名古屋城は家康の気変わりで年内に完成させろと急に納期が6ヶ月になり、なんと4ヶ月で完成させた。当時最大の慶長期江戸城も半年で完成させたとのこと。


関連記事: http://bit.ly/2KLxy1n

NHK大阪放送局ブログ
2018年05月09日 (水) 歴史秘話ヒストリア伝説の棟梁 中井正清


 腕自慢の大工を率いるために職人としての技術と、リーダとしての魅力と才能を兼ね備えていた。別に、シリコンバレーを見習わなくても、ドラッガとか言わなくても400年前の日本にはすでにこういう知識があった。とは。。。
 ちゃんとロジカルに考えれば、答えは出てくるものだろう。

 むしろ、下手に聞きかじるほうが危ういのでは... 最近はコミュニケーション活性化とか日本が失ったものを欧米が真似している....

彼の「仕事の流儀」「頼もしきリーダ像」を以下に揚げる)

  1. アイディア・効率化) 最新式の層塔型天守を考案し、2階から上の形状を正方形に統一、柱間隔を統一し、材木を統一規格にして準備。

    補足:名古屋城築城以前は、御殿の上に物見(望楼)を載せた望楼型。各層の形がいびつなので、材木も現場合わせする。
     安土桃山城天守(信長は天主と呼んだが)の石垣は不等辺八角形。秀吉の大阪城もまだ歪んだ長方形。名古屋城築城時代にも、まだ正方形の天守台をつくる技術はなかった。


    名古屋城天守あたりから採用された最新式の層塔型天守 

  2. 先手を打ち、バックアッププラン) タイムリーに調達しようと頼りにした木曽川沿いのヒノキは空前築城ブームで川沿いの木が既に伐採されており、予定通り調達できなかった。代わりに全国から541人の大工を集める準備。
  3. どんな状況でもベストを尽くす。コストダウン) 徹底した競争入札。釘やかすがいなど金物(鍛冶屋)の入札書類が残っている。コメで4280石の又兵衛。3300石の弥左衛門。残り5ヶ月。
    当時の入札書類


  4. 部下の力を引き出す)残り4ヶ月強で材木と大工が揃う。541人の大工を4つのグループに分け適材適所。

    当時の大工組の名簿を4つの区分で色分け

    上記名簿右端から..
      •  緑)  最も信頼する正清の出身集落の大工は、工事のかなめ製材・木材加工を 
      •  黄)  力量をよく知る奈良の大工は、失敗が許されない木材の組み上げを 
      •  ピンク)  安土城築城や足利将軍家御用など名門の棟梁は、大量生産できない屋根の破風や内部の仕上げ等を任せ、プライドの高い彼らを互いに競わせた 
      •  水色)  町の大工など築城未経験者は、簡単な仕事や、人手が不足箇所の手伝い等。しかし、彼らも勤務評定。「精出し者」と付箋が貼られた大工名簿が残っている。大工たちの指揮は高まり工事は急ピッチで進んだ。
      名簿に貼られた、精出し者の付箋


  5. ノーとは言わないすべてを実現する。しかも期待以上の成果) 
    完成した名古屋城は、1945年に名古屋大空襲で焼けるまで約300年 日本最大かつ名城と称された。
戦前の名古屋城 -天守と本丸御殿 - 国宝だった 

21世紀に入って名古屋城は本丸御殿が木造復元された。また、これから天守が完全にもとどおりに木造復元される。

関連記事) https://mainichi.jp/articles/20180509/k00/00m/040/149000c

名古屋城 天守閣は「エレベーターなし」に 市が方針 毎日新聞 2018年5月8日 「史実に忠実な復元」を優先の結論

蛇足)

間違いか史実が変わったのか?
番組で紹介された家康の慶長期江戸城天守の再現CG 

 家康の江戸城天守の高さ70メートルは高すぎる。慶長度天主は天守台込で55メートルと言われている。(ま、内堀の外の低いところからの測定かもしれないが。。)

 また、従来の専門家の分析では、天守は望楼型といわれており、名古屋城のような層塔型が江戸城で採用されたのは、秀忠が立て直した元和度天守から。家光による日本最後に建てられ最大の寛永度天守が天守台を含めて59メートル、天守台が14メートルと言われている。高さ59メートルは20階建てのビルに相当する。成田空港で反対派が占拠して開港が遅れた旧管制塔が高さ約64メートル。93年2月にできた新管制塔が高さ約87メートルであることを考えても、江戸初期に高さ59メートルの木造建築を作った技術は素晴らしく、その長めは当時の江戸っ子の度肝を抜いたことと思う。

 家康の慶長度江戸城天守は、姫路城と同じく小天守を抱える連立式で、場所も本丸の真ん中あたりにあった。このため本丸御殿の拡大に邪魔になり。二代将軍秀忠が家康の死後とりこわして 元和度天守を建てた際には、今の天守台のある北側に移し、将軍の私邸である中奥や大奥の敷地を確保し、小天守を一つにして層塔型に変えたようである。慶長度天守は鉛瓦で白塗りの白亜の天守であったといわれている。