Facebookで議論してみると、「私のステレオタイプではないのか?」との意見も出たが、海外で暮らしている目でみて、海外での報道の仕方と比べると、明らかに日本文化がしみ出していると思う。これもあるのかFacebookでは、海外で暮らしたことがある多くの知人からは賛同が得られている。
オリンピックで必要な才能とは?)
まず、どういう競技にしても、
- 一番必要なのは本人の才能と努力であり
- 次が監督や家族のサポート
- 次が組織委員会などでの組織的なサポートだと思う。
日本と欧米の文化の違い)
文化としてみれば、米国にはなくて日本にあるものとして、運動会、文化祭、修学旅行があげられる。小学校で運動会をやっているのは、必ず日本人の補習校である。
特定の種目の大会はあるが、いろいろな種目をそろえて、ほぼ全員参加に近い形で、家族まで呼び込んでやるのは、日本人たちだけである。
つまり、同じ組織に居る仲間に団体行動を強要する文化が存在する。
これは、格差を作らない、全員にそれなりの役割を与え、全体で何かを成し遂げるという理想があり、素晴らしい文化だと思うし、このおかげで、高い平均的な労働意識を維持してきたと思う。
団体行動文化の負の側面)
ところが、昨今になってこの負の側面も見えてきている。それは、機械化、合理化、IT化により労働集約型ではなくて、少数精鋭(ソフトウェアでいえばAgile開発 http://bit.ly/1lpFYsk 、平たく言えばベンチャー型)の産業がでてきた。かつ、それが高成長・高利益率の産業になっている。そこでは、大勢に役割分担をして回すやり方は合わない。
昔から少数精鋭は日本にもあった)
実は日本にも昔から少数精鋭に近い産業も存在した。それは、職人芸であり、刀鍛冶、芸術家(浮世絵師なども..)がそういう分野だった。
ところが、高度成長期からバブル期にかけて、欧米式のマニュアル化を中途半端に導入したおかげで、この少数精鋭部隊の育成が無くなった。そして、平凡な大勢でなんとかする、というやり方だけが残ったように思う。
現在の大企業でおきている弊害)
たとえば、大企業で画期的な製品プロジェクトを立ち上げたとすると何が起こるか? プロジェクトへの期待が高まるにつれて、勝ち馬に乗る動きが起きる。「私も協力します」「なにかやらせてください」と知識も経験もない有象無象が集まる。本来、中核になるべき人が、管理工数として忙殺されることになる。一方、立ちあげ期のプロトタイプを作る時期には、そんなに人は必要ないので、プロジェクトは立ち上がらない。すると、勝ち馬に乗ろうとしていた人達は、今度は敵に回ることになる。「そもそも、あのプロジェクトは筋が良くない。失敗だった」とかになる。それでは、画期的なことはできない。
浅田真央に掛かったプレッシャー)
浅田真央にしても、彼女は彗星のように現れ、15歳で、当時女子では珍しかった3回転ジャンプを飛んだ。そこに、あたかも自分達もヒーロー育成に協力したかのように、大勢があつまって、彼女に凄い技を要求したのではなかろうか。少なくともマスコミのインタビューは3回転ジャンプをどう取り組むかの話題ばかりだったようである。最近しばらく調子が悪かった体操でも、才能のある選手がでてくると、画期的なウルトラCばかりを期待していた。
そして、有象無象は、期待する通りにならないと、「彼女には才能がなかった。ヘタだった。コーチが悪い」と知ったようなことを言う。「ヘタだと言うなら自分で3回転ジャンプの手本をやってみせろよ!」というような選手でないと、注目されたあとに成績を出しにくいのかもしれない。その点では、浅田真央は性格が良すぎたのかもしれない。それも含めて、才能が無かったといえば終わりかもしれない。
世界で活躍するには日本人離れした個性が必要なのかもしれない)
北島康介 http://bit.ly/1p97e1c や
イチロー http://bit.ly/1p981iy みたいなキャラも才能のうちなのかもしれない。このリンクにあるイチローの名言から、
『期待はいくらかけてもらっても構わないんですけど、僕は僕以上の力は出せないので、自分の力を目一杯出すしかないということですね』
『どんなに難しいプレーも、当然にやってのける。これがプロであり、僕はそれにともなう努力を人に見せるつもりはありません。』
『準備というのは、言い訳の材料となり得るものを排除していく、特定分野で才能がある人には、日本の扱い方が苦痛に感じたことがある人は多いのではなかろうか。。
そのために考え得るすべてのことをこなしていく。』
日本を再び世界で活躍する国にするには)
全体行動と個人行動、特に才能のある人や異端に対する接し方について、そろそろ考え直す時期では無かろうか。
日本文化の良いところを失わない為にも。