さらに、アメリカで安全保障問題について議論する際によく使われる言葉で「minimize risk」という言葉がある。「リスクの最小限化」ということだが、この大前提として「リスクは0%にはならない」という考えが定着している。軍用機の使用で言えばこういうことだ。どんなに完璧に整備をし、乗員に施せる限りの訓練を実施したとしても、飛行当日が視界不良の悪天候だった場合は事故が起きてしまうかもしれない。どんなに操縦士の腕が良くても夜間飛行など、難しい環境であればあるほど、事故のリスクもあがる。事故の原因を究明し、結果を公表し、対応措置を取ったとしても、それ以降の事故の確率は決して0%にはならない。当事者にできることは、常にリスクを最小限化するための努力を続けることだけである、という考え方だ。三島駅での新幹線事故でも、食中毒や、いろいろな事件でも、常に事故をゼロにしようとする。
翻って日本ではどうか。米軍や自衛隊による事故が起こるたびに、「再発防止」が叫ばれ、常に「100%の安全性」が求められる。「最善の努力をしても事故のリスクはなくならない。だからリスク回避のためにはこういう措置を取りましょう」あるいは「万が一事故が起こった場合にはこのような手続きで速やかに原因を調査し、結果を公表して今後に役立てていきましょう」といった議論をする余地がそこにはない。オスプレイ配備をめぐる反対はその顕著な例といえる。
しかし、福島第一原子力発電所の事故や事故後の対応の検証から出てきた一番の教訓は「100%の安全という非現実的な神話にこだわるあまり、普段からのリスク管理や緊急時の対応などについて十分な対策がとられなかった」ことではなかっただろうか。何事にも「100%の確証」はない。それを求めること、またそれが確保されなければ反対、という立場をとることは非現実的なのだ。
情報漏洩でも100%安全にしようとする。
それでよいのか。。
日本の死者数については、話題がはずれてきたので、以下に移動した。
2012年9月2日日曜日 :日本の死者数の分析