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60万アクセスまでの経過

2009年12月に始めた本blog。2011年7月ごろに10万アクセスを達成し、2011年12月13日には15万アクセスを達成。
その後、私も更新しておらず、アクセスは少し減りましたが、3月1日には18万アクセス。2012/4/18に20万アクセス、2012/8/21に25万アクセス、2013/1/18に30万アクセス、2013/12/17に40万アクセスを達成しました。しばらく見ていなかったら、2015/5/1に50万2584アクセスになっていました。またまた、しばらく更新しないうちに、2017/6/11に60万7197アクセスになっていました。2018/7/7 .. おお七夕 .. には63万0656アクセスになっていました。久しぶりに更新しました。
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2014年11月2日日曜日

日本だけの運動会文化

米国の学校では、運動会、修学旅行、文化祭は行われないようである。時々、現地の小学校で運動会をやっていると、日本人学校だったりする。中国やインド人もやらないみたいである。これが良い文化なのか悪い文化なのかは分からないが、運動会というものが妙に日本の文化(ムラ文化?)を表しているように思えてならない。。

ガイジンになったつもりで
運動会の不可解さを考えてみた..)

  1. 同じムラでの親睦を深める目的
    1. 学校とか地域とか海外なら日本人とか(ガイジンは入れない...)。複数学校合同運動会とか、あまり無いないように思う。男子校なんて女子校と合同運動会をやれば楽しいのに。。
  2. 親睦を深めるという目的なのに、なぜか競争する
    1. クラスやら地域やらで分けて、点数でトップを目指す(紅白歌合戦のノリか)
  3. 競争するくせに、上位大会がない。つまり運動会でトップになったらオシマイ。通常のスポーツのように、県大会、全国大会があるわけではない。つまり競争の結果はあまり重視されない。
  4. 会のなかで相対競争するだけなので、特に事前練習するわけでもない。(特に、大人の運動会の場合)全然練習しないで走ったりするので、怪我をしたりする。
  5. 最近は、親も運動会で写真やビデオを撮るのに必死。自分の子供の写真を撮るために朝早くからかけてつけて、必死で席取りをし、他人を押しのけて自分の子供だけをビデオにとる。
親睦なら競争しないで仲良くやれば良いし、ま、余興でチャンピオンを決めるなら、心から祝ってやればよいと思うが、とかく負けると悔しくてねたむ国民性なのに、わざとあおるように競争させるのは、きっと不思議に映ると思う。

親が必死で撮影する写真やビデオにしても、仮に運動会の競争で一番になっても、そのムラの中だけの一位。子供にとってみれば記念になるのは友達の中にいる自分なのに、子供だけのアップのビデオばかり増える。。
そもそも子供の記念の写真は、欧米人は家族で良い衣装を着て、毎年専門の写真館で取ってもらう。欧米人にしてみれば、なんでそんなに躍起になるのか。。と疑問に思うかもしれない。

米国で「スポーツが趣味」という人は、本格的にやっていてプロ級の人が結構いるという。やるなら、絶対的なトップを目指す人が多い。趣味ならどうでもよいかもしれないが、趣味ですら仲間内で競ってよしとすることはないと思う。

「目的が親睦といいつつ、競争に持ち込み、その競争の結果にはあまり意味がない」と、目的と運営=すなわちロジックにズレがあるのも、日本に多いパタンのように思う。

ムラの中での戦いをやめて
結束して世界と戦おう!
私の高校時代までは)
私も日本の教育で育ったので、こどものころには運動会や文化祭には気合いをいれていた。特に、地元の高校は進学校であったが、運動会と文化祭への気合いの入れ方はすさまじく、中心になって、運営して気合いをいれた。が、今考えると、普通の運動会とは違っていて、オリジナリティとか絶対的な価値を探し始めていたように思う。

そして、大学に入ってからの文化祭はますますその傾向が強かったように思う。当時、「恋人リサーチ」のような軽いノリの出し物が多かった中で、「ヤマハ」に掛け合って最新のMIDI対応のシンセサイザーを何台か借りて、友人達と音声サンプルボードを設計し、PCのプログラムを作成し、マイクの歌から音符を採譜し、リアルタイムで自動的に伴奏を生成するシステムを作ってデモした。。当時、まだ国産の8ビットパソコンがでたかどうかの時代で、PC9801がまだ無かった時代である。

運動会の歴史)
wikipedia: 運動会 によると、
「運動会の起源はヨーロッパにあるとされるが、欧米では体育及びスポーツの分化により、一方では特定種目の競技会やそれを複合させたスポーツ競技会、一方で子どもによる伝統的な遊戯まつりやピクニック会などへとつながって今日に至っている[2]。そのため、日本の運動会のように参加者が一定のプログラムについて順次全体としてまとまりながら競技・演技を行う形式の体育的行事は「近代日本独特の体育的行事」といわれる[2]。」とあり、日本、それも近代日本独自の文化らしい。

「1878年5月25日には札幌農学校で「力芸会」が開催された[9]。その後、僅か数年で北海道内の小中学校に広がったといわれる。また、1883年からは東京大学で「運動会」が定期開催されている」とある。
 1878年は明治11年であり、富国強兵。家内制手工業から大量生産の欧米型産業への移行期であった。文明開化した日本は欧米列強を追い越すため、官民協力して、文化をつくりパラダイムシフトをしてきたように思う。

家内制手工業的時代への復帰?)

だが、世の中は技術変化と設計・生産技術の進化により、ソフトウェア産業・半導体産業のみならずオフィスも自動化が進んできている。設計検証の自動化・web化・クラウド化・新たな流通網・NC工作機械・3Dプリンタなどの技術革新によって、多くの産業が再び少数精鋭で成立するようになりつつある。米国では、すでに農業も、高度に省力化された産業に変わっている。つまり、人海戦術の大量生産から、再び、江戸時代の職人芸や家内制手工業に近い形に戻りつつあるように思う。

かつて運動会文化で短期で工業国化を達成したのかもしれないが、今や、それだけでは足らないのではなかろうか。。。

自動化により人海戦術に頼れる業種は段々と少なくなりつつあるように思う。そして、ごく高度なサービスを必要とするサービス業や医療しか産業が残らない。
これらは人海戦術なので、市場シェアが大きくなったときに労働力も同様に投入せざるをえず、いわば「スケールしない」産業となりうる。付加価値を上げ続ければ、収益率は改善するだろうが。。
こういう産業が人工知能ロボットでスケールするようになった時代には、これら産業も、設計が全てを決める少数精鋭による産業になっているのかもしれない。

バブル崩壊移行30年近く踏みとどまっている日本に必要なのは以下の3つに整理されるのではなかろうか。
  1. 従来型大量生産に向いたパラダイム (均質、平均レベル向上)の活用法を考える
  2. 自動化時代に適合した少数精鋭パラダイム(少数精鋭、トップレベル向上)を構築する
  3. 全く新しいパラダイムを生み出す
米国の現地高校では)
これは以下に書いた。日本の運動会文化とは、大分、姿勢と運営が違う。

2014年11月22日土曜日: 米国の公立高校での音楽教育



2012年5月4日金曜日

官か民か - 中国化する世界


公共投資をする手段として大きく2つが考えられる。以下の1は2つに細分した。
  1. 官による投資。つまり税金を集めて官が投資する
    • 1.1 民主主義により選挙で選んだ代表者の合議
    • 1.2 合議ではなく、優秀なリーダによる徳治
  2. 民による投資
共産主義は1をめざし、米国が理想とするのは小さな政府による2の民間活力である。これは、イデオロギーの対立とも思える。

日本は自由主義であるが、明治以来官主導の政策が強く、現在は1.1に近いのではと思う。
中華人民共和国など共産国は1.2である。

以下この3つを比較したい。

民間活力を重視する米国)

金が集まれば優秀な先生と学生が世界中から集まる。そして、そこから次の起業家がでる。起業家がまた母校に寄付をする。という正のループが回り始める。いまのグローバルな資本主義の世の中は、結局はカネ次第だという思想。

日本でも外国でも、国や行政は、はっきり言って商売は上手くないし、動きが遅い。国にお願いするとかではなく、民間活力で、教育、新産業の正のスパイラルを回せば良い。

米国は、資本家で大成功した信じられない金持ちが上位におり、彼らは寄付をして大きな税控除をうけている。寄付をすれば、自分の希望するところに税が使えるということにもなる。

例えば、 Stanford大の学内新聞Stanford Daily 201228日号 http://bit.ly/xMPplo によれば、「Stanford大は、TCOという5年のファンドを$6.2B (78円換算で4,800億円)に増大する。うち、$1.5Bで、130人の新たな教員を雇い、$250Mの学部生用の研究ファンドに当てる。もともと、$4.3B( 3,350億円)だったが、寄付で十分まかなえるので、増額したとある。この資金で、また建物を改良していくらしい。」とある。これは基金の一つであり、他にも基金はあると思う。すくなくとも奨学金の原資は別枠である。建物は、ベンチャーの社長がまるまる寄付して、社長の名前のついたものが多い。研究費も一口何千万円オーダで世界中の企業から募っている。産業育成のサイクルが上手く回っているということもあるが、富が一部成功者に集中する、アメリカンドリームの世界も関係しているだろう。ここは活力と格差という表と裏があり難しいところである。

一方、日本のH.24年度(2012年度)の文科省の予算概要 http://bit.ly/J54n5j によれば、私学の経常費助成金は日本全体で3,200億円である。国立大学(大学法人)の運営交付金も日本全体で114百億円とある。これを、86校の国立大学( http://bit.ly/J57BFU 参照)で分けることになる。仮に均等分配した場合(東大とかが多いのはご承知の通りだが)、各校あたり年間186億円。先のStanford大は、TCO基金だけで年間960億円なので、国に頼らなくても十分回っていることがわかる。
 国に頼って、申請が面倒で融通がきかない、いろいろ制約がついた金を、もらうのはばかばかしい。
 http://bit.ly/J57Wsf によれば私立大学は助成金が、日本全体で国立大学の3倍の数になる。総額で国立大学の1/3.5しかない予算を、3倍の数の学校で分け合う。私学こそ、国の力を借りずになんとか回す手立てを考えて欲しい。

中国化する世界)
中国は、もちろん1.2の優秀なリーダによる徳治である。
ところが最近は、日本でも橋本大阪市長や、一昔前は小泉首相のように、カリスマ性をもって、ある種強引にリードしていくリーダが人気を得ている。
これに関して、「中国化する世界」という本がある。

http://hon.bunshun.jp/articles/-/445 に著者インタビューが

http://d.hatena.ne.jp/ta26/20120402 に個人の書評が、

http://amzn.to/HBbLEt がamazon.co.jpの書評である。

歴史的背景)
もともと、世界は農耕民族とモンゴル等にいる騎馬民族の対立があった。この騎馬民族のゲリラ攻撃に耐えるには、中央集権で強大な国家が必要になる。そこで、中国などアジアの中央の騎馬民族に近い国家は中央集権化したということである。

日本も律令制で一旦は中国化しているし、明治維新でも中国化している。しかし、やはり騎馬民族の脅威から遠いので、江戸時代には社会資本共有の分散体制となった。

明治時代には一旦中国化したが、戦後、江戸化し、小泉改革で多少中国化に振れたが、その後また、江戸化に戻ったという解析である。

ヨーロッパも騎馬民族の脅威から遠いので、民主化という形で、非中国化したということである。

大陸と島の違い)
日本、韓国、中国、インド、台湾はアジアの文化であり。勤勉である。
夫婦関係を軸とした西洋と違い、これら東洋では家族が親子関係を軸としているように見える。そのため、親は子供の教育に非常に力を入れる。米国の現地校に多い、中国人やインド人を見ると、時として、過保護とも思えるくらいに、子供の教育に干渉する。
この点では一見似ているように思えるが、やはり大陸と島は違う。
日本人と台湾人は大人しい。が、中国人、インド人、韓国人は、時として西洋人も舌を巻くくらいアグレッシブで自己中心的な側面を見せる。

このためか、台湾人と韓国人はあまり友達になっているのを見たことがないと聞く。ところが、日本人と台湾人も、日本人と韓国人も友達になっている。台湾人に聞いたところ、韓国人はアグレッシブだから合わないということであった。ということは、日本人はとりわけ大人しいということであろう。

中国に駐在する人が、中国人の自己主張の強さには驚くといっていた。おとなしい中国人もいないではないのだが、やっていけるのか端から見ても心配になるそうである。教科書、検定などでの、中国や韓国の猛烈な日本に対する抗議を見てもわかる。

やはり大陸では、常に戦いにさらされて、アグレッシブな文化となったのであろう。

中国化の定義)
上記2番目のリンクの書評にある。
中国化とは 「皇帝以外の身分制や世襲制が撤廃され、移動の自由・営業の自由・職業選択の自由が行き渡り、科挙という形で官吏(支配者層)になり上がる門戸が開放された(男女間の差別は残る)ことだ。結果、世界で最初に「自由」と「機会の平等」が達成された。

但し、苛烈な競争社会が出来上がり、振り落とされる者が大量に出てくるから、その保険として、「宗族」という父兄血縁のネットワーク( 同族間の相互扶助の仕組み)が宋代に完成することになる。

また、経済的には自由化が実現されるが、皇帝に権力が集中し、さらにその皇帝が権威を儒教思想=普遍主義的なイデオロギーによって正当化したため、政治的な正しさと道徳的な正しさが同一視される。その皇帝が行う科挙で選抜された官僚は、政治権力・知性・人間性ともすべておいて正しいことが建前になる。」と、まさに明治時代の理想になる。

江戸化の定義)
江戸化は、まさにこの反対であり、ムラ(会社内組合)とイエ(男性の職業固定、終身雇用)の論理が、優先され、移動や、貨幣経済の自由は、かなり制限される。
差別が残り、優秀な官僚による支配を否定し、終身雇用、非競争社会である。江戸時代は変化に乏しいが、平和で安定的で、日本人の気質にも合っていたということである。

それにしても、日本人は江戸化が好きなようである。持続可能な社会を目指すのはともかく、成長しない社会が良いという意見も良く聞く。争うくらいなら、移動もせず、非競争が良いということであろうか。。それなのに、受験勉強で激しく争いあっているのは、どうしてなのだろうか。これも本来の希望の姿ではないので、争わない世界に移っていくのだろうか。。世界は、大競争の弱肉強食の時代に入っており、発展途上国もこれに加わってくる、その中で、日本だけ江戸化して大丈夫かどうか、じっくり考えた方が良い。

明治維新と昭和維新)
明治維新は天皇集権の中央集権国家に戻し、日本は非常に過酷な競争社会になる。ところが、この明治維新の厳しい社会は平均的な日本人にとって極めて苦手で生きづらい社会であったとのこと。
そこで、昭和に軍国主義という名の、軍隊による社会主義をつくりあげた。先の本の著者は、いわゆる社会主義のうち江戸時代の伝統にそわない部分は徹底的に排除されたが、江戸時代と適合的な部分は全面的に採用されたと指摘する。

そして、江戸時代 - 昭和軍国主義 - 高度成長と一連に連なる、社会主義的な日本の江戸的な性格が見えてくるというのである。

日本はどうするのか)
選択肢は3つある。1.1 このまま江戸化でいく、1.2 中国化する、2 民間活力でいく。
今の日本は、もはや江戸化では対応できないという状況であろう。


2011年11月26日土曜日

日本を日本たらしめていること

日本は、農耕民族とか島国とかで簡単にはくくりきれない、かなり特殊な事情があると思っている。
そもそも、狩猟民族などアフリカぐらいであり、世界中の主流は農耕民族で、一部遊牧民族がいる程度である。
また、イギリスや台湾も島国である。


日本と欧米の文化は、ほとんど正反対である。以下の冒頭に列挙した。

2011年11月23日水曜日: 大変優れた日本のサービス、日米の違いの整理



なぜ、こういう違いが生まれてくるのか考えてみた。


まずは列挙する)
  1. 権威がモノをいう
  2. 革命が起きていない
  3. 封建制度が農民を土地に縛り付けたムラ社会が残っている
    これは女性蔑視も関係していると思う。(2011/12/3追記)
  4. 自然を愛する細やかな感性
1と2は深く関係がある。天皇という権威を使って継続的に統治を維持してきているために革命が起きていない。

権威がモノをいう)
  1. 紀元前からつづく天皇統治というシステムは、世界でも希では無かろうか
  2. 学者も、政治家も、医者も、法律家も、企業トップも権威という仮想的なものにより、庶民の上に君臨する。権威とは、ケースバイケースでは判断しない。絶対的な正しさのようなものである。最近、巨人軍のお家騒動での老害や、多額の横領事件を聞くが、これも、権威あるものには逆らえない、刷り込みがあるからなのではなかろうか。この点画期的なのは、ホンダのシステムである。Tech-onに出ていたので、別途記事を書きたい。リンクは以下である。http://techon.nikkeibp.co.jp/article/FEATURE/20111115/201618/
  3. 実質ではなく、所属や地位や名前がモノを言う
    - 日本の会社が米国に売り込みに来ると、会社の社長、売り上げ、製品系列とか、そんなものばかり話す。そして、何をやりたいか話さないことが多く、唖然とするらしい。聞きたいのは、1) どういうビジネスをしたいか。2) だから、お互いのどう言う技術を組み合わせたいので、組もうという話をしにきたのか。であり、社長の名前とか、売り上げとか、製品系列は全く関係無いのである。
  4. 仲間内で失敗を隠蔽する
    1. 手術の失敗による死を隠したりする
良い側面もある。
  1. 先生を大事にする。先生を敬うこと無くして、教育は成立しない。(最近は、モンスターペアレントの出現で、これが崩れつつあるのが嘆かわしい)
  2. 医者を敬い。無駄な医療訴訟天国を避ける。これには、繊細で気配りがあって、先回りして手を打つという、日本の美意識も関係していると思う。いずれにしろ訴訟というコストのかかる手段を使わず同じ効果が得られるかぎり、日本のシステムは優れている
革命がおきていない)
為政者が変わっても、下層の行政システムは従来のまま引き継ぐことが多かったようである。
革命が起きていないことが、日本が、歴史や文化を大事にしない理由だと思う。歴史や文化を踏みにじられることがなかったので、文化を守る必要を感じていない。本当は第2次世界大戦後の米軍進駐で踏みにじられているのだが。


日本人の温和な国民性も革命がないところに起因しているのかもしれない。

ムラ社会が残っている)
ムラの特徴は、以下のようなモノだと思う。
  1. 土地を守る、移動しない
  2. 変わることを拒む
  3. 異端児を排除する
  4. 差別により不満解消をする - いわゆる部落問題など
  5. 偉い人におまかせする - 昔ならお代官様、庄屋様である。今なら農協?
1の移動しないが、2-5のすべての根源だと思う。


移動の順にならべると
米国                - 遊牧民  - 欧州 -  中国  - 日本
開拓者精神                                                先祖の土地を守る


となるだろうか。
がおそらくは、移動しないは古くからの文化ではない。そもそも人類はアフリカで生まれ、移動によって広まってきた。日本人もルーツは、朝鮮半島、北海道経由、南方といろいろなところから移動してきていると思うし、大和朝廷も移動しつつ支配を広めていった。


ところが、封建制度を安定させるために、豊臣秀吉が検地をやって農民を土地にしばりつけ、士農工商で職業の自由を奪った。徳川政権もそれを踏襲した。ここで、ムラ社会の基礎ができたと思う。ムラ社会は農耕やら島国とは関係の薄い、多分に、人為的なものだと思う。ムラでは、部落を作り差別し見下し、不満を発散させた。国民に不平等への不満があるかぎり、部落という鬱憤のはけ口を完全に消すのは難しいかも知れない。


2011/12/3追記) 女性蔑視も関係しているように思う。女性は子供の教育に大きな責任を負うので、特に影響が大きいと思う。以下に書いた。

2011年12月3日土曜日: 米国の最大の美徳 = 議論に対する素直さ, 女性抑圧のない社会



狩猟文化とは)
冒頭に述べた狩猟文化だが、実は実際に狩猟をするとかではなくて、「戦う」ということに示されているように思う。欧米は革命によって成立してきており、戦わないと権利が勝ち取れない。が、日本はそうではなく規律を守り、運用で回避する、ないしは妥協点を見つけるという傾向がある。「君子危うきに近寄らず」という傾向がある。


欧米の戦う文化を狩猟文化と呼び、妥協してよしとするのを農耕文化と呼ぶのであろう。


2011/2/6注) これは最近もっと面白い学説がある。欧米も日本も農耕文化なので民主主義とのんびりしたことをいっている。対して、中国、ロシアは遊牧民と戦わなければならないので、徳のあるリーダの独裁主義になったということである。最近の橋下徹現象は、中国化だと言っている。大変面白い。


http://on.fb.me/w3yAAz に東大 石塚教授の解説がある。


が、それでも米国には戦いが残っている。
iPhoneやiPadの脱獄でも、今は、米国ミレニアム著作権法で合法になったが、それまでは、アングラにしか活動できていない。米国の活動化たちが、違法を顧みず立ち向かって、権利を勝ち取ったのである。実は、今でもかなりグレーな部分はある。たとえば、AT&Tが4GB/月の契約でしか提供していない、tetheringを脱獄により2GB/月の契約で使えるようにしたり。Softbankが1日1,400円もチャージする海外ローミングを、一ヶ月100MB 19ドル。通話は1分10セントの海外Prepaid SIMで使えるようにSIMをunlockすることなどである。自由に使う権利を行使するといえばそうだが、契約違反といえばそれまでであり、グレーな部分は残る。


AppleとSamsungがスマホ、tabletを巡り骨肉の争いを繰り広げているのも、狩猟的である。


LinuxなどのOpen sourceでも、特許侵害の危険などで、日本のメーカはずっと後ろ向きだったのだが、米国の有志が努力してそれを解決してくれた。今は、それに日本のメーカが相乗りして、「システムは、Open Mission Criticalだ」なんていっているわけである。肝心なところを、いつも人に頼っているので、ときどき、米国が怒り出すのだと思う。


これについては、以下の後半に、リファレンスも引用して具体的に書いた。
2011年12月4日日曜日:脱獄してやっていいことと悪いこと - 既得権益との戦い
文化はどうやって形成されるか)
地域の特性は人種では無く文化で形成される)
同じと思われる人種でもかなり違う。以下に例をあげる


中華人民共和国                   台湾
自分勝手でマナーが悪い      マナーが良く、親切


米国の黒人                         アフリカの黒人
過激で暴力的                      おとなしい人種もいる


サウジアラビア                   イラン
自己主張がきわめて強い      日本的で和を重んじる


祭りも文化を継承する手段)
よく、浜っこは漁をするから荒い、山の子はおとなしいという。
が、それも怪しい。


同じ浜でも静岡市民(旧清水には三保の松原という浜がある)は、おとなしいが、
浜松市民はかなり荒い。
これは、若い徳川家康が、荒っぽい三河武士を浜松につれてきたからとも言われる。


確かに、車の運転が荒いナンバーのところには、荒い祭りがある。どうも、祭りが文化の継承に一役買っているようである。


浜松 - 浜松祭り
河内 - だんじり祭り 岸和田市


運転との関係は知らないが、ほかにも荒い祭りとしては、
諏訪のご神木、東京 神田祭り
などがある。そのエリアの人間も荒いのだろうか。


味に対する感性の違い)
米国にもカップヌードルがあるが、旨くない。鰹や昆布だしが入っていないのである。


中国人は豚の臭さが好きであるが、鰹や昆布のうまみはあまり入れない。日本人だと、よほどの豚骨好きでも、あの豚臭さはなかなかなじまない人が多いと思う。昔、知人に、料理のヘルパーをやってもらったことがある。中国人なのだが、アサリの味噌汁を作ってくれた。ショウガをいれて、アサリの臭みを消していた。日本人なら、アサリの臭いはうまみなので、消さないであろう。


昔いた会社で、お好み焼きを振る舞ったことがある。良いにおいにつられて、インド人や白人がやってくる。でも、一口食べて「interesting!」といって、もう食べない。デンプンの味と、隠し味にいれた、鰹節などがあわないのだろう。


米国のケーキは、死ぬほど甘い。砂糖がじゃりじゃりしているのが多い。チョコレートも旨くない。これも味に対する感性の違いであろう。和菓子は、油脂が入っていない性なのか、味がしないというそうである。
ところが同じような、おかしでも、フランスだと旨い。


米国の保育園では、オートミールというものを食べさせる。激マズである。その後、ファーストフード漬けなので、舌がおかしくなるのだと思う。


昔、南フランスで食べた、ムール貝のクリーム煮が絶品だった。生煮えぎりぎりで、火の通し方が旨いのである。イギリスで同じメニューを食べたが、ひどい物だった。味付けもひどかったが、火を通しすぎなのである。


もちろん共通な部分もある、米国でも、中華料理とか、フランス料理とか、イタリヤ料理のうまい店は、やっぱりうまい。混雑している。


自然を愛する細やかな感性)
よく、日本には四季があるという。しかし、年中常春のカリフォルニアでも広葉樹はそこそこ綺麗に紅葉する。その写真を以下に示す。そのへんの普通の街中の風景である。



先に書いたように、感性は文化で継承されるのだと思う。アメリカ人がこの紅葉を美しいと思う感性と、日本人のそれとは違うのであろう。


レストランのメニューでも値段の安さと量が第一というアメリカ人と、味と飾り付けの美しさ歯触りなどを総合的に判断する日本人では感性が違ってきて当然である。


この味に対する感性の違いにより、日本料理は料理に一手間も二手間もかける。対して、フランス料理以外の欧米の料理法は、焼くだけ煮るだけと、かなり単純なものが多い。米国の料理番組で、複雑な調理法は見たことがない。


日本を日本らしくにしているのは、ほんのちょっとのことを美しいと感じる感性であって、それは文化ではぐくまれているのだと思う。もちろん気候や食べ物、職業、政治支配構造など様々な要因が長い時間を掛けて影響しているだろうが、直接的には、文化として継承されているものの影響が大きいと思う。

細やかな感性が、空気を読むことにつながり、几帳面な国民性を生んだのかもしれない。そう考えると、日本の文化を、もっと いとおしんで大事にしたくなる。


良いところは輸入されず、悪いところばかりマネして、日本の美徳が失われつつあるように感じる。以下に書いた。リンクをクリックすると、そのblogへ飛ぶ。
2011年10月15日土曜日: 思考停止していませんか? 日本の美徳を失う舶来崇拝?
関西と関東の違い)
関西で落とした物を拾ってもらうと、ついでに、
「もうちょっと、ええもん落としといてもらわんと。」と言われるらしい。
それに対して、「ほんな、ええもんが、落ちてますかいな」
「そりゃそりゃな。あっはっは」となるらしい。
言葉の遊びであって、セットフレーズらしい。
「あほかいな」「あほちゃいまんねん。パーでんねん」と一緒であろう。


関西のほうが、気持ちに余裕があるということだろうか。学会でも、笑いからはじめて、落ちをいれないとならないらしい。


まじめな東京人には分からない。きりきり煮詰まっていても良いことは無い。


クリエイティビティは気持ちに余裕が無いと生まれない。大阪のほうが食事が旨いのも関係があるかも。
新産業や新ベンチャーは、関西に期待した方がいいかもしれない。






2011年11月14日月曜日

日本とアメリカ人のつきあい方の違い


アメリカ人は、会議でははっきりとものをいうが、間違っていたら直ぐにフォローをする。

どうも夫婦や恋人関係も同じであって、問題があれば直ぐにフォローするし、フォローがなければ、それは駄目=離別ということらしい。
一方、日本はこの辺をぼかす文化なので、いつの間にか夫婦関係が破綻していたが、一方は全く気づかなかったということが頻繁に起きるようである。

これはビジネスでも同じであり、不都合があれば直ぐにフォローしないと、アメリカの会社との関係は破綻すると考えたほうがよいであろう。

会議でもそうで、アメリカ人は基本的に脳天気でおおらかであり、日本人ほど几帳面で律儀ではないので、言質を取るなんてことはしない。一方で、「おもしろいね」「やろうやろう」とか、良い反応をしてあげないと、「それは駄目なんだね」と思われてしまう。日本流の「善処します」とか、「考えておきます」では、気持ちが通じないのである。

話を戻すと、米国の会社からフォローがないということは、すでに破綻しているということでもある。

日本人とメイルとかでやりとりして、よくあるのは、反論があるときには返信が来るが、賛同したときには返信がないことである。日本人なら、無返事=賛同で察しがつくが、欧米人には、フォローがないので、関係が切れたとしか思ってもらえないかもしれない。

アメリカ人も日本のやり方を理解する必要があるが、日本側も先方のやり方を理解しないと、コミュニケーションは成立しない。行き違いがあれば、お互いに損をするだけである。

ハリウッド映画やアメリカのTV番組を見てもこれは分かる。ストーリーが非常に単純でわかりやすい。複雑なことをやっても受けいれられないのであろう。

外人講師による異文化コミュニケーションとか、海外マネージメントとかいう教育があった。日本はhigh context文化、欧米はlow context文化。日本のようにcontext(文脈, 背景知識, あうんの呼吸) はないので、欧米では口に出して言う(もちろん、態度や目配り手の動きは日本以上に重要なメッセージを発するのだが...)がすべてなのである。