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本ブログのアクセス統計: 60万アクセスを達成しました。ご訪問ありがとうございました。

60万アクセスまでの経過

2009年12月に始めた本blog。2011年7月ごろに10万アクセスを達成し、2011年12月13日には15万アクセスを達成。
その後、私も更新しておらず、アクセスは少し減りましたが、3月1日には18万アクセス。2012/4/18に20万アクセス、2012/8/21に25万アクセス、2013/1/18に30万アクセス、2013/12/17に40万アクセスを達成しました。しばらく見ていなかったら、2015/5/1に50万2584アクセスになっていました。またまた、しばらく更新しないうちに、2017/6/11に60万7197アクセスになっていました。2018/7/7 .. おお七夕 .. には63万0656アクセスになっていました。久しぶりに更新しました。

2012年3月3日土曜日

Computer History Museumにいってきた

大学の行事でシリコンバレー Mountain ViewにあるComputer History Museumに行ってきた。以前のSilicon Graphicsの社屋であろう。

団体で行ったので、ガイド付きのツアーを開催してくれた。個人で行った場合にも、12:00と14:00からツアーに、無料で参加できるそうである。ニューヨークのメトロポリタン博物館もそうだが、博物館員の無料ツアーというのは、普段見落とす見所にテーマをきめて回ってくれたり、詳しい情報が聞けてとてもためになる。

ツアーガイドもプロ)
引退されたコンピュータの専門家がツアーの説明員をされているらしいが、1年間の教習をうけるそうである。なので展示に関してはとても詳しい。約40人のボランティアがいるそうである。
見学後、今回のガイド担当者のLowellさんに、現役時代のお仕事を伺った。実はこの話も、非常に興味深かった。後述する。

学ぶ事が多い)
Revolutionという案内誌にHarvard Business SchoolのRichard S. Tedlow教授が以下のようなコメントを寄せている。(英語を要約した)
歴史を学ぶことはエンジニアリングでも、科学でもない。
コンピュータヒストリー博物館には、いろいろ教えられるものが展示されている。しかし、この博物館を訪れると、答えを得るよりも沢山の疑問を持って帰ることになるだろう。これらの疑問が正しい疑問であれば、それこそが前進である。
ある展示は、 答えを出してくれる。ある時点で、ある人が、ある場所で仕事をしたことにより、コンピュータは進化をしてきた。
しかし、展示されているものから一歩下がって、学んだことを一般化しようとすると、それは難しい課題であることが分かる。まず、現在ある各種技術なしでは、今の我々の社会は存在できない。今の時代には、情報が沢山蓄えられている携帯端末を、手のひらにのせて持ち運ぶことができる。これは、昔にはあり得なかった。
1982年に亡くなったイギリスの詩人Alfred Tennyson(テニスン)がいる。彼の一番有名な詩は1984年に作られた「The Change of the Light Brigade (軽騎兵の突撃)」であろう。現在ならコンピュータでテニスンのページにいって、著者が朗読するのを聞けるだろう。テニスンは死ぬ前にロウのレコードに朗読を吹き込み、それが今はインターネットで聞けるのである。彼の朗読の声は永遠のものになり、いつでも誰でもアクセス可能になった。
まず、このことに驚いたあと、次にはもっと大きな疑問がやってくる。どうやってこれを実現しているのか? 科学技術が歴史をコントロールするのか? コンピュータヒストリー博物館のおかげで、こういう答えのない深い疑問に接することができるのである。
テニスンというのは、あまりなじみが無い。が、wiki
http://bit.ly/HippOo の下のメディアの所で、世界3大行進曲として有名な「星条旗よ永遠なれ」の作曲者スーザ率いるスーザ交響楽団の演奏を、エジソンが録音した1909年の録音が聞ける。
 まさか、作曲者本人の指揮する演奏の録音が聞けるとは思ってもいなかった。ちょっとテンポが速く、はやまわし風のような気がするが、とても綺麗に録音されている。インターネットの偉大さである。


技術は行きつ戻りつしつつ進化する)

1950年代の冷戦にソ連の攻撃を検知し防御する為に作られたコンピュータシステムが半自動式防空管制組織SAGESemi Automatic Ground Environment)である。以下にあるような、4階建てのビルがまるまるコンピュータシステムになっている。32,000本の真空管からなるコンピュータが2台、記憶装置である磁気ドラムを共有する形で接続され、1台が待機系となり、冗長構成になっている。1960年当時で、100億ドル。2000年換算で700億ドル。の費用を掛けたシステムである。2000年での価格を、1ドル100円で換算すると、7兆円のコンピュータシステムである。IBMが作成したが、一度もソ連は米国の制空権内に入ることもなく、一度も使われなかったシステムでもある。

2013/3/29追記)  2013/3/2に、GIGAZINEに詳しい紹介が以下に掲載された。

http://gigazine.net/news/20130328-sage/

1時間に一本の割合で真空管が故障し、事前診断プログラムもあり、事前に交換していたそうである。コンピュータ史上最大(多分最大消費電力)のプロセッサということである。(複数プロセッサであれば、日本の地球シミュレータ http://www.jamstec.go.jp/es/jp/index.html の方が床面積は広いらしいのですが。。)

SAGEが動作している様子も写されたビデオもある。
米国空軍による紹介ビデオは戦時中の大本営発表、ないしは、サンダーバードのフィルムの様でレトロ間が漂う。。ぜひご覧あれ。。

SAGE) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E8%87%AA%E5%8B%95%E5%BC%8F%E9%98%B2%E7%A9%BA%E7%AE%A1%E5%88%B6%E7%B5%84%E7%B9%94

延べ床面積は、2,000平方メートルとある。wikiには、航空機の侵入を許してしまった事ともあるし、別の意味で使い物にならなかったとある。つまり時代は航空機による爆撃の時代ではなく、ICBMの時代に入っていたからだとある。

SAGEの建物のプラン1Fが電力室、2階がコンピュータ。4階がコントロールルーム。


SAGEの制御パネル。銀色の銃の形のものが、ライトペンである。すなわち、タッチパネルのインターフェースをもっていた。画面をタッチして、位置を指定するするのである。テーブル右のが電話のダイヤル。左側に灰皿とシガライターがついている。
SAGEの画面に表示された、グラフィック。飛行中の航空機などが、動画として、グラフィカルに表示される。当時の動画がスクリーンで紹介されていた


1960年代に入り、クレイ1で有名な、セイモア・クレイが最初に作った、スーパーコンピュータCDC6600。配線長を短くするために、この大きさに収めた。CPUを、1間の押し入れ程度であり、巨大なビルの1フロアを占領していたSAGEより、はるかに小さいであろう。この思想は、彼のコンピュータに終始通じている。当然熱密度が上がる。右側の黒い箱が、冷却用の冷蔵機。フレオンガスで素子を直冷する。当時のIBM7030の100倍(?)の性能を実現した。値段も10Mドルに下がった。Fortranが使われ始めたのもこのころか。。

CDC6600のボード。初めてトランジスタを使用している


上記ボードを横から見たところ。缶に入ったのがトランジスタで、基板の間にソリッド抵抗がある。案内の方が、実ボードを回覧に回してくれる。

1965年に入り、ICを使用し値段が格段に安くなった。PDP-8 。 
1968年にXelox Parcでアラン・ケイの要請で開発された。Alto。今のwindows, Macが採用するディスクトップメタファ。マウスが発明され。What You See IWhat You Get(見たままが得られる)が実現されている。
学ぶこと)
1950年代には、すでに、タッチパネルでグラフィックインターフェースを持ったSAGEがあった。が、その後のCDC6600, PDP-8では、文字インターフェースにもどり。1968年のAltoになって、グラフィックインターフェースが復活した。

ところが、その後に出た、パーソナルコンピュータ1977年のApple II  (1,298ドル)。1981年のIBMPC (1,565ドル) では、再び文字インターフェースに戻っている。
技術はゆきつ戻りつしている。

Altoは、西海岸のAltoで開発されて、非常に先進的であったが、Xeroxの幹部は東海岸にいて、その価値を見抜けなかったため、Xeroxの製品にはなっていない。コピー機としては生きているが。。

Apple IIでは、Altoのグラフィックインターフェースを採用しなかった。が、XeroxはAppleの株主であった。Steve Jobsは当時XeroxのParcにジョギングしたりしており、その際、Parcに招待され、Altoを見た。すぐに、この価値を見抜き、Appleの技術者達にAltoを見学させたとのこと。

そして、Appleは1984年にLISAを発表した。3,495ドルと高かったので成功しなかったが、Appleは同じく1984年にMacintoshを2,995ドルで発売し、これが大ヒットする。

以上まとめると
  1. 技術は行きつ戻りつする
  2. 革新技術に接したときに、見抜ける人と見抜けない人で結果は大きく変わる

その他)
初期のコンピュータ、ENIACで使われていた真空管。弾道計算用でメモリは数字20桁分しかなかった。極秘プロジェクトなので値段は不明。消費電力は100kWくらいだろうかとのこと。
Apollo計画のガイダンスコンピューター

高級デパート ニーメンマーカスが、フラグシップとして1968年に広告に掲載したキッチンコンピュータ。1万ドル。Honey well 716ベース。家庭には1台も売れなかった。が、事業用として使われた。入出力が全然ないので、テレタイプをつけないと使えなかった。
初期のインターネットARPANETの通信装置

Googleの最初のサーバ。ハードディスクと基板の間にコルクの板が入っている。

Lowellさんのお話)
Stanford大の修士を1960年代に卒業され、2010年に引退し、博物館の研修を1年受けた後、2011年からボランティアをしているそうである。
制御コンピュータの開発がご専門であり、御退職の前には、Space shuttleのガイダンスシステムを開発し、その後、Stanford大の粒子加速器 SRACで働かれた後、重量子線の宇宙望遠鏡の制御システム開発を統括されたらしい。5つのコンピュータをもち2つが制御、残り3でデータ処理をし、3並列処理でデータを削減し通信量を減らすが、多重系にもなっており、1台になっても処理ができるようになっているとのこと。ガンマ線バーストなどを検出したらしい。高域ガンマ線宇宙望遠鏡GLASTではなかろうか。。
http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&langpair=en%7Cja&u=http://144.206.159.178/ft/787/42271/14043969.pdf




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